雪谷点描
僕は現在横浜市青葉区つつじヶ丘という所に住んでいるが、6.5m道路を隔てた一家がある。
時々ピアノの練習音が聞こえて来るので どなたが弾いているのか想像していたが或る日散歩に出掛けようとした時、『今日は』という明るい若い少女の声で姉妹と思われる2人から挨拶を受けた。
僕も、『今日は 初めまして』と挨拶を返したが、多分その姉妹は中学上級から高校生程度で、年齢もそう差がないと想像した。
視力を失っている僕にとって、52年前の大田区雪谷における風景とダブッテ来て、まるで昨日のような気持ちで雪谷時代を振り返ることが出来た。
昭和33年4月、前に述べた元陸軍少将出口平吉氏の紹介で、大田区雪谷の住宅街の一軒家の茶室に、岸上大作と二人で下宿する事になったが、六畳と三畳板の間の二間続きの部屋であったが、三畳間の窓の向こうが約50坪程度の庭付きの一軒家であった。
その庭で、中学高学年と高校低学年と思われる美少女姉妹が遊んでいるのをぼんやり見つめていたのを思い出す。
後で判ったことだが、その一軒家は日本道路公団幹部の住んでいる官舎であった。
日本道路公団は、日本に高速道路を造るための公団が存在する事すら知らなかったが、未だ十代の子を持つ親であれば、そんなに歳は重ねていないと思われたが、こんな豪華な屋敷に住めるなんてどんな人かと思った。
ずっと後に天下りのことを知って成る程と思った。
つまり当時の建設省キャリア組の一人であったと想像される。
その庭の一番われわれの部屋に近い所に、三本の柿の木が植えてあり、 その年の秋に柿の実が見事に実り、窓から手を出すと取れる場所に何個か生っていたので、十個程の実を無断で頂戴して、新清酒を一本買って来て岸上と二人で柿の実を肴に小宴会を張ったことがあったが、その事については、小川太郎著『血と雨の墓標』という本の中に書いておいた。
その姉妹とはその後親しくなり、窓越におしゃべりするようになり、時には2.30分以上も他愛のない話をした記憶がある。
昭和35年になってから、その場所が三階建ての集合住宅に建て替えられることになり、その姉妹達もどこかへ転居して、連絡も取れないままに今日に至っている。
僕が二年程度のかすかなふれ合いであったが、今思えばあの子達も、六十代後半になっているが、その人生がどんなもであったか想像すると、思わず微笑えましくなってくる。
僕にとっても、あの頃の面影が脳裏に生きているわけであり、今つつじが丘の姉妹と面影がダブッテ来る。
視力を失った者にのみ与えられる、すばらしいロマンなのかもしれない。
雪谷時代の4年間の約半分程度の期間、その姉妹とのふれ合いは、今からみても燦然と輝く明るい風景の一つとして、僕の脳裏に何時までも残っている。
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