2010年7月30日

雪谷点描

カテゴリー: 未分類 — admin @ 2:51 PM

僕は現在横浜市青葉区つつじヶ丘という所に住んでいるが、6.5m道路を隔てた一家がある。
時々ピアノの練習音が聞こえて来るので どなたが弾いているのか想像していたが或る日散歩に出掛けようとした時、『今日は』という明るい若い少女の声で姉妹と思われる2人から挨拶を受けた。
僕も、『今日は 初めまして』と挨拶を返したが、多分その姉妹は中学上級から高校生程度で、年齢もそう差がないと想像した。

視力を失っている僕にとって、52年前の大田区雪谷における風景とダブッテ来て、まるで昨日のような気持ちで雪谷時代を振り返ることが出来た。

昭和33年4月、前に述べた元陸軍少将出口平吉氏の紹介で、大田区雪谷の住宅街の一軒家の茶室に、岸上大作と二人で下宿する事になったが、六畳と三畳板の間の二間続きの部屋であったが、三畳間の窓の向こうが約50坪程度の庭付きの一軒家であった。

その庭で、中学高学年と高校低学年と思われる美少女姉妹が遊んでいるのをぼんやり見つめていたのを思い出す。

後で判ったことだが、その一軒家は日本道路公団幹部の住んでいる官舎であった。

日本道路公団は、日本に高速道路を造るための公団が存在する事すら知らなかったが、未だ十代の子を持つ親であれば、そんなに歳は重ねていないと思われたが、こんな豪華な屋敷に住めるなんてどんな人かと思った。

ずっと後に天下りのことを知って成る程と思った。
つまり当時の建設省キャリア組の一人であったと想像される。

その庭の一番われわれの部屋に近い所に、三本の柿の木が植えてあり、 その年の秋に柿の実が見事に実り、窓から手を出すと取れる場所に何個か生っていたので、十個程の実を無断で頂戴して、新清酒を一本買って来て岸上と二人で柿の実を肴に小宴会を張ったことがあったが、その事については、小川太郎著『血と雨の墓標』という本の中に書いておいた。

その姉妹とはその後親しくなり、窓越におしゃべりするようになり、時には2.30分以上も他愛のない話をした記憶がある。

昭和35年になってから、その場所が三階建ての集合住宅に建て替えられることになり、その姉妹達もどこかへ転居して、連絡も取れないままに今日に至っている。

僕が二年程度のかすかなふれ合いであったが、今思えばあの子達も、六十代後半になっているが、その人生がどんなもであったか想像すると、思わず微笑えましくなってくる。

僕にとっても、あの頃の面影が脳裏に生きているわけであり、今つつじが丘の姉妹と面影がダブッテ来る。

視力を失った者にのみ与えられる、すばらしいロマンなのかもしれない。

雪谷時代の4年間の約半分程度の期間、その姉妹とのふれ合いは、今からみても燦然と輝く明るい風景の一つとして、僕の脳裏に何時までも残っている。

岸上大作と「文学圏」

カテゴリー: 未分類 — admin @ 2:38 PM

兵庫県神崎郡福崎町の国鉄播但線福崎駅前に、神崎タクシーという保有台数拾数台のタクシー会社があった。
その社長である木村真康さんは、昭和30年当時、その地方での短歌を研究している仲間を募って「文学圏」という短歌結社を主宰しておられた。

昭和32年夏休みの時、岸上と僕は「高校時代」という雑誌に投稿して、
名前及び作品が掲載されているのを「文学圏」の同人の方が知り、神崎タクシーの二階で開催する歌会に参加しないかと誘われて出席したのが木村氏との最初の出会いであった。
その時どのような歌を何首作ったとか、どうしたかは殆ど覚えていないが、約二十名の出席者達は大変熱心であり、この地方の短歌のレベルがかなり高いものだと実感した。

このときのメンバーの中に当時、福崎保健所の幹部であった齋藤正雄さんという方がおられた。

大学に入学し、夏休み冬休み等の帰省時には必ず同会に誘われ出席し、皆さんに可愛がって頂いたのがまるで昨日の様に思われる。

勿論「文学圏」誌にもわれわれの歌を掲載して頂いたのは事実であるが、今手許に残っていないのは残念である。

歌会以外にも帰省するたびに、木村氏にはお目にかかりいろいろと御指導頂いたのは勿論である。

昭和35年12月に岸上君が自殺し、彼の母上と妹さんと僕の三人が遺骨を抱いて福崎駅に降り立った時、「文学圏」の人達が何人かで出迎えて下さり、木村社長の御好意により、同社のタクシーで岸上宅まで送って頂いた。

岸上君の葬儀を済ませ、一旦上京し同年末に帰省し、木村社長に御挨拶させて頂いた時、そばにおられた齋藤さんが「雲丹亀君、岸上君の母上が、もしよければ福崎保健所の賄婦として勤めてもらえないか」と尋ねられたので、僕は即座に「ぜひ御願いします。今からすぐ母上に御会いして、この話を伝えます。」と答えた。

当時、岸上君の母上は近所の製縄工場に勤めており、長時間低賃金の労働であったので、この話を聴いた瞬間、これは有難い話と判断したので母上に御会いして、この話は岸上君が死を以って取り次いでくれた話として受け入れて下さい、と申し上げた。
勿論母上にも異存なく、すぐ翌日福崎保健所に齋藤さんを訪ねる様伝えた。

翌年正月明けより岸上君の母上は、保健所の職員として採用された。

この秘話については今まで誰にも話さなかった事なので、岸上君についての文献は多数あるが、親不孝ばかり重ねていた岸上君があの世に行って、初めて実のある親孝行をしたと言えるのではないか。

短歌同人誌「文学圏」はそのどうなったかは定かではないが、高校3年生の頃から大学卒業まで約4年間の短い行き交いであったが僕にとって70年を超えた人生において、一点が輝く一つのエポックであったと思えてならない。

なお、余談ながら岸上の死は、彼の母上にとって大変なショックであったと考え、僕は、あえてその後、連絡は取らなかったが、福崎保健所に勤務する神南中学、福崎高校を通じて一級後輩であった小林たまみという女性が、僕の従兄である雲丹亀元と結婚したため、岸上の母上の消息についてはある程度把握していた。

母上の方も彼女を通じて僕のことを承知しておられたようである。

昭和50年頃、文芸部の仲間の井上、加茂川、三原(旧姓奥平)と僕の4人が福崎で会った時、岸上の母上を訪ねようということになり、岸上家を訪ねたが、不在であったので、手土産に手紙を添えて台所裏に置いて帰った。

その翌日、岸上の母上から横浜の僕の自宅にお礼の電話を頂いた。

それが彼女と直接話をした最後であった。もちろん僕の電話番号も前述の雲丹亀たまみから聞いてのことであるのは当然である。

今思えば、もっと連絡をとっておいた方が良かったのではないか、と思うと、母上の気持ちを察して敢えて連絡をとらなかったその判断については、常に僕の心は揺れ動いている。

2010年7月5日

僕にとってのギネスブック(続)

カテゴリー: 未分類 — admin @ 7:46 PM

僕は、あと1ヵ月後で71歳になるほぼ全盲に近い人間です。
でも、気持は20歳代のつもりで前向きにいろいろなことに取り組んでおります。
前に述べたギネスブックの最終の箇所に、今僕が所属しているレモシステム㈱が発売しているアイグリップシリーズを10億人に使用して頂くのを理想としている旨を記したが、それが着々と進行している事を報告致します。
当時は、アイグリップシリーズは「アイグリップインソール」及び「アイグリップジュニアインソール」は商品化されていたが、今回新たに「アイグリップウォーカーヒールロックタイプ」及び「アイグリップジュニアシューズ」と続々と秋のシーズンに向けて商品化の準備が進行しています。
ジュニアシューズについては、サッカー日本代表のシンボルマーク入り及びイナズマイレブンのマーク入り等、子供達に夢のある商品としてデビューさせます。勿論、インソールはアイグリップインソールになっております。
履くだけで偏平足、外反母趾等が治癒され、走り、蹴り等の向上に大きく寄与する高機能ジュニアシューズです。
アイグリップウォーカーヒールロックタイプは、従来のアイグリップウォーカー機能の数々の特色に加えて、踵をがっちりロックすることにより姿勢が良くなり、横脚等の治癒に効果があります。その他気軽に近間歩きに適したサンダルも企画中です。
また、女性用パンプスとして、ハイグレードパンプスも試作中です。
その他2、3点の展開も企画中ですが、具体的になった時点にこの項の続編として述べる心算です。
以上、各シリーズの展開により今秋以降アイグリップの知名度が急上昇し、より多くの人々に愛されることになる事は必定であります。
具体的な数値を述べることは差し控えさせて頂きますが、多分来春桜の頃にはアイグリップで大変世の中が賑やかになっている事を予告しておきます。

2010年6月18日

一期一会(13)

カテゴリー: 未分類 — admin @ 11:00 AM

オリエントリース(現オリックス)元常務
オリエントオートリース(現オリックス自動車)元会長
加島治道さんのこと

僕が加島さんと初めてお会いしたのは、昭和48年(1975年)3月下旬、世界貿易センタービル33Fにあったオリエントリースの東京営業部内の役員室であった。
当時63歳の同氏はロマンスグレーの役者然とした風貌の人であった。
最初は変なおじさんという程度しか思わなかったが、同年11月1日付けでオートリースの代表取締役会長として赴任されたのが正式に加島さんとの交わりのきっかけであった。
最初、加島さんはこの人事に不満だったらしくかなり僕らに対する態度も堅苦しかったが、夕方になり近くの居酒屋で酒を酌み交わしてからはお互いの人格を認め合うようになり、以後4年3ヶ月に亘る人間関係は濃厚且つ友好的だった。

営業時間内は僕が外出することが多かったが、いわゆるアフターファイブからは当初は殆ど毎晩のように二人で酒を飲みながら自動車リースの展開について喧々諤々の議論をしたものである。
その時に、僕は加島さんからファイナンス理論について詳しく説明を受け、僕からは自動車管理について説明させてもらった。
その議論の中から編み出したのが、自動車所有に伴う自動車税、自動車保険、重量税等の諸費用分のリース料に反映させる方法についてある一定の比率を計算し、それを変動比率と名づけてリース料算出の基礎データに適用した。
この考え方は、現在のコンピューター管理になるまでは会社の基本方針としてずっと採用され続けた。
この間約40営業日を要したが、今から思えば良くぞ毎日飲んだものと我ながら感心する次第である。

 
加島さんとは職場での上下関係に留まらず人間対人間としての薫陶を十分すぎる程受けさせて頂いた。
いわゆる加島語録として社内に有名な言葉がある。
その一、二例を挙げれば、

「商取引は当方と相手の双方が成り立ち得るものでなければならない」

という言葉がある。
例えば、昭和50年頃、某損保会社の常務が来社され、新型保険として「ボンド保険」を新発売すると胸を張って滔々と説明されたが、その説明が終わった時加島さんが「○○さん、この保険は貴社にとって大損害を被るから直ちに中止した方が良い」と言われ、先方が「なぜか」と気色ばんで反論した時加島さんはにっこり笑って「例えば、当社がこの取引は危険と思った案件しかこの保険は使わないです。絶対に安全なケースでは決してこの保険をかけることはありません。つまり「ボンド保険」を適用するならば、全取引において加入する義務付けがなければ保険とは言えませんよ」と切り返された。
因みに、「ボンド保険」は延べ払い商取引に対する保証保険であった。
このやり取りの後、その保険会社は「ボンド保険」を取り扱わなかったが、他の保険会社は取り扱ったため、2~3年後大量の損失を計上せざるを得なかった。
もちろん、この忠告を聞き入れた某損保会社から感謝されたことは言うまでもない。

もう一つの例をあげると

「商取引において、遠隔地からの紹介及び引き合いの際は先ず警戒せよ」

というのがある。
遠隔地というだけで、地元では扱えない何かが存在することを先ず考えるべきだということである。

加島語録の最後に、僕が生涯参考にさせて頂いている言葉を紹介したいと思う。

「自分のバックには上司があり、組織があり、会社があるということを絶対に忘れるな」

自分一人で実績を挙げたという錯覚に陥らないことである。

 
赴任されてから4年3ヵ月後、加島さんは大阪駐在相談役として転勤され、暫くしてから健康診断で胃癌が判明し手術された。一時健康を回復され上京された時「雲丹亀、銀座に飲みに連れて行け」と言われ、加島さんなじみの飲み屋へ行ったが、水割り2、3杯しか飲めなかった。毎日あんなに飲んでおられた方がこんなに弱くなってしまったかと寂しいく思った。
その後再入院されたと聞き、大阪出張の際、当時オートリース社長の岩井靖氏と一緒に尼崎労災病院へ見舞いに行ったが、ふっくらとした風貌の加島さんが痩せてまるで猿の様な顔つきになっておられたのが痛々しかった。
そして、昭和55年12月6日早朝に死去された。

振り返ってみると、ビジネス一本槍に生きながら、そのシャープな頭脳をもっていろいろな現象を見破り、各所に直言して会社を正しく見事に誘導されたのが今でも生々しく思い返される。

一期一会(12)

カテゴリー: 未分類 — admin @ 10:06 AM

赤坂料亭「長谷川」女将 虎岩美代子さんのこと

虎岩さんと始めて会ったのは昭和47年(1972年)の春頃であった。

当時僕は本田技研東京南営業所に所属していたが、そこへ本田技研の川島喜八郎常務(後の副社長)から電話があり、赤坂の料亭「長谷川」がホンダの車を1台買いたいと希望しているので直ぐに手続きをしてくれ、との紹介があったのがきっかけである。同店は本田宗一郎社長をはじめ、各役員がお世話になっている店だから丁重に応対してくれとのことであったので、僕は虎岩さんに電話するときから、お会いした時、納車が完了するまで細心の注意を払ったのを覚えている。

当時の虎岩さんは、30代後半の美人女将でてきぱきと行動されていたのが印象に残っている。車に関する代金等はすべて定価通りであり、僕が所属している営業所の男子社員全員(12名)にと、オールシルク最高級靴下をプレゼントされたのも覚えている。

その後、僕はこれが縁となりホンダ在職中2、3回、大阪時代のホンダ販売店等が上京された時等お世話になった。また、オリエントオートリースに転じた後にも何度かお世話になった。同社と某損保会社の役員方の会合に同店を会場として使わせていただいた事もある。その際 現オリックス会長宮内義彦さんが同席されており、虎岩さんと宮内さんが同じ昭和10年生まれであり、それぞれの娘さんが慶應普通部に在籍されていることが判り、話が大変盛り上っていたのを覚えている。

また、どの会合か忘れたが、虎岩さんと僕が本田宗一郎さんの話をした時、下落合の本田邸での鮎パーティーの話をした時のことについては前述の本田宗一郎さんの項で書いたので ご参考にされたい。

僕がホンダからオリエントオートリースに転じた後、「長谷川」に車を納入する担当になった一級後輩の加藤俊信君に虎岩さんが、僕のことを「あの人は将来大物になるよ」と言われたと加藤君から伝えられたが、その予言通りにはならなかったのは僕の不徳の致すところであると反省しており、非常に恥ずかしく思っている。

虎岩さんの経営者としての手腕が素晴らしいと思う点の一つにいわゆる黒塀。御座敷形式の料亭経営から敷地の有効活用に転換し同敷地内に近代的ビルを建設し、料亭部分を地下に移したことが挙げられると思う。

同業他社が次々とその歴史に幕を閉じてしまった中で、今も堂々と盛業中であることだと思う。当時から帝国劇場店、新宿ルミネ店等も経営しておられる。新宿ルミネ店については、僕の家内が、次男の所属していた青山学院高等部の野球部父母会の会合で十数名がお世話になったこともある。

最後に、虎岩さんについては、彼女は僕より四才年長であるが、女性としての彼女への見方よりも、立派な大先輩経済人という感覚しか残っていない。素晴らしい人に巡り合えるきっかっけを作って下さった故川島喜八郎さんに深く感謝したい。

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